第8章 笑い
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laughは古英語のhliehhan(はははのようなもの)、つまり笑いの音を表現した擬音語に由来する
人間は生まれてまもなく、話したり歌ったりする何ヶ月も前から笑い始める
笑いは不随意な行動
その意味で、呼吸、瞬き、驚いてビクッとする、しゃっくり、震える、嘔吐など他の不随意の行動と似ている
しかし、そうした行動がたんに生理的なものであるのに対して、笑いは不随意な「社会的」行動だ
それ以外の不随意行動はDarwinが「すべての表情のなかで(中略)もっとも奇妙」と呼ぶ赤面と泣くこと それにもかかわらず、「わたしたち」はいつ笑うのかを決定できない
もちろん無理に笑ったり、抑えたりすることはできるが、結果はたいてい不自然
強制された笑いと抑制された笑いは一般的なルールの反例である
つまり、通常は笑いをコントロールできないということになる
わたしたちはまた、驚くことに笑いの意味にも理由にも気づいていない
コラム10 笑いの略史
笑いは基本的に悪意のある一種のあざけり、嘲笑、軽蔑の形
この説の問題点は、くすぐられたときに笑う理由は、街頭で物乞いを見ても笑わない理由の説明がつかないこと
笑いは生理的なプロセス
ある状況で脅威や負の感情を感知すると、脳はそれに対処するために「神経質エネルギー」を呼び出すが、のちに状況が変わればそのようなエネルギーは必要なくなる
その際、使われなかったエネルギーの消散に笑いが使われる
笑い=緊張+安堵
この説の主な問題は、脳内を流れる「神経質エネルギー」などというものが存在しないこと
人間の脳は水力ではなく、化学と電気だ
自分の期待が裏切られたとき、特に喜ばしい方向でそうなったときに人は笑う
不調和説は、ほとんどのジョークが仕込みと落ちの構成になっている理由を説明できる
仕込みで期待させておいて、落ちでそれを壊す
この説の主な問題点は、不調和がわたしたちに音声を出させる理由や、その音声が社会的に利用される方法について説明がないこと
Kantは笑いを、心の動きが体の臓器の動きに「同調して」映し出されるという、当時でさえ怪しげな原則にあてはめて説明しようとした。わたしたちの心を揺さぶるジョークが同時に横隔膜も揺さぶるとでも?もちろん、まったくばかげている。
これらの説のすべてにはほんの少しずつ真実が含まれているが、いずれも「進化した社会行動」としての笑いの本質を掴んでいない
「自我」が笑いを理解したりコントロールしたりしない一方で、脳は手慣れたもの
いつ笑い、どのような刺激で笑うのかを知っており、たいていの場合はそれを正しく行っていて、不適切な笑いが出てしまうことはごくたまにしかない
脳はまた、他者の笑いに対して自分も笑うのか、それ以外の適切な反応を示すかどうか、直感的に理解する方法も知っている
笑いが不可解なままなのは、わたしたちの意識、内観する心である「自我」だけ
これまでの各章から、無知にはしばしば欺く目的があることがわかっている
ならば、笑いに隠された暗い一面があっても不思議ではない
笑いの生物学
人はなぜ笑うか
「おもしろいから」
滑稽なものごとに対するわたしたちの知覚が笑いを引き起こしているということになる
その線で考えると、ユーモアを感じる心理状態とは何かと考えたくなる
『ヒトはなぜ笑うのか ユーモアが存在する理由』といった本でたっぷりと語られている
けれども、笑いを調べるという本書の目的に置いては、ユーモアを追求したところでどこにも行き着かない
ひとつには「ユーモア」が何であれ、それに反応して忍び笑いや含み笑いを発するのはなぜかという疑問は解けない
さらに、「ユーモアとは無関係の刺激」に対する笑いの理由も説明しなければならない
したがって、笑いを説明するためには、ユーモアの心理学以外にも目を向ける必要がある
ロバート・プロヴァインは1990年代、笑いに関する文献が推測に基づく理論ばかりで、実際のデータがまったく欠けていることに気づいた そこで彼は笑いを、実験室環境と「野生」環境、すなわち商店街や公園など現代アメリカの公共スペースで実際に調査して、その問題を解決することにした
「ジェーン・グドールがチンパンジーを研究しようとゴンベ渓流保護区に赴いたのと同じ精神で、学部生三人による助手とともに、自然な生息地における人間を調査すべく、都会のサファリに出発した」とプロヴァインは記している(Provine, 2000) この実験的かつ生物学的な笑いの研究は、いくつかの重要な観察結果を生んだ
プロヴァインの推定で実に30倍
一人で笑うことがないわけではないが、笑いは社会的な場のためにある
テレビやラジオの番組制作者が「あらかじめ録音された笑い声」を入れるのもそのため
録音の笑い声でも、実際よりも人が多い場所にいるとわたしたちの脳をだますことができ、ゆえに視聴者が笑う可能性を高められるのである(Provine, 2000) 発声、つまり音である点
動物の世界ではどこでも、音は「積極的なコミュニケーション」の目的を果たしている
聞いた側に思い通りの行動をとらせるために音を立てる
プロヴァインは公共の場で聞こえてくる1200回の笑いを調査したが、もっとも驚いたのは聞いている人よりも話している人のほうがよく笑うとわかったこと
実際、話し手の方が50%も余計に笑っていた
笑いを受け身の反応と考えるとこれは辻褄が合わないが、笑いが積極的なコミュニケーションの一つの形であることを思い出せば合点がいく
乳幼児でさえ、やりとりをしている相手に自分の感情を伝えるために、笑いを用いているように見える
プロヴァインは母親と赤ん坊のあいだの「デュエット」について描写している
同様にイェール大学の昔の調査では、幼児は赤の他人にくすぐられたときより、母親にくすぐられたときのほうがすぐ笑うことが示されている(Eastman, 1936) この種の笑いはたんなる自動反射の心理的反応ではない
これは社会的なやりとりを調節するために用いられているメッセージ
笑いが他の種にも見られること
進化論に基づくこの説明は、笑いの音波特性によっても裏付けられている
大型類人猿のそれぞれの種について録音された笑いを分析したところ、研究者は遺伝子から判明している種の「系図」と同じものを再構築することができた
私たちのサルの親戚もまた、たとえば親しい仲間にくすぐられたときや取っ組み合って遊んでいるときなど(Provine, 2000)、人間と同じような多くの状況で笑う 人間に育てられたチンパンジーのルーシーにいたっては、飲酒したときや自分で鏡に向かって変な顔をしたときにも笑ったことが報告されている(Provine, 2000) 笑いは遊びのシグナルである
アメリカ人ジャーナリストで流浪の知識人だったイーストマンは、幼児と遊んでいたときに、笑いに関するひらめきを得た
彼は1936年の著書『笑いの喜び Enjoyment of Laughter』にそのときの様子を記している
この次に赤ん坊をあやすよう頼まれたらどうすればよいかを教えよう。まず笑う。それからひどくこわい顔をする。赤ん坊が人の表情を見分けられる月齢に達していれば(中略)赤ん坊も笑うだろう。けれども、最初に笑わずにいきなりひどくこわい顔をすると、おそらく赤ん坊はびっくりして泣き叫ぶだろう。こわいものを見て笑うためには、まず遊ぶ気分になっていなければならないのだ(Eastman, 1936) ここで核となっている発想は、笑いは必ず遊びと結びついているという考え方
深刻な雰囲気ではこわい顔は悲鳴を引き出すが、ふざけた雰囲気ならその同じ刺激が笑いを生む
イーストマンいわく「遊びと本気の違いに基づいていなければ、いかなるユーモアの定義も、とんちの理論も、喜劇の笑いの説明もいっさい通用しないだろう」(Eastman, 1936) 動物学者によれば、遊びとは、動物、なかでも特に子どもが世界を探索し、のちの生活に不可欠なスキルを学ぶための行動形態 それは随意であり、特定の目的を持たない行動で、安全でリラック舌環境で行われる(Akst, 2010) むろん、動物が自分自身と環境について学ぶという意味では、遊びは実用的。けれども実行している状況そのものにおいて実際の目的がないため、その意味では遊びは非実用的
そして動物の世界ではきわめて一般的
ところが、わたしたち人間はひとりで遊ぶ事が多い一方で、笑うのはおもに他者がいるときであることを思い出してもらいたい
すると遊びの状況において、笑いはどのようなコミュニケーションの目的を果たしているだろうか
彼の目の前で二匹のサルが戦っているように見えたが、明らかに本気ではないようだった 格闘ごっこをするためには、サルに遊びの意図を伝達する何らかの手段が必要だということ
そうした遊びのシグナルが一つ以上なければ、一匹のサルが意図の解釈を誤って、遊びの模擬戦が本物の格闘へと容易にエスカレートしてしまう可能性がある(Bateson, 1955) ベイトソンは伝達方法が何であるかをつかめなかったが、それ以来、生物学者がそうした遊びのシグナルを詳しく研究しており、今ではそれを用いるのが霊長類だけでないこともわかっている
「遊びだよ」というメッセージはきわめて重要であり、結果として多くの種がそれを示すための独自の表現手段を発達させている(Pellis & Pellis, 1996も状況から得られる手がかりの重要性を強調している) たとえば、イヌは遊びに入る前に、前脚を伸ばして頭を下げ、後半身を持ち上げる「遊びのおじぎ」をする((26)) そして多くの動物は、特定のしぐさだけでなく、ゆっくり動いたり、大げさなもしくは不必要な動きをしたりもする
まるで本当に危険な状態なら絶対にしないような、目に見えて無駄な努力をして、遊びの意図を伝えているかのようだ
そして人間は同じ状態のときに笑う
しかし笑うだけではない
にっこりする、大げさに体を動かす、ウィンクのように変わった表情を作る、甲高い「遊びのおたけび」をあずけることもする
このメッセージのおかげで、とりわけ本当の危険がほのめかされるような状況、あるいは危険と隣合わせの方法で遊んでいる場合に、わたしたちはそれが「安全な社会的遊び」であると他者と示し合わせることができる
実際には、人間は笑いについて二つの密接に関係する意味を状況に応じて見分けることができる
意図を伝える笑い
遊びであることを遊び相手に伝えるシグナル
認識を伝える笑い
誰かの行動への反応として笑うとき、それは意図ではなく認識を伝えていることになる
これは反応としての笑いで、外部の刺激によって引き起こされる類のおの
ジョークなどのユーモア、くすぐられる、追いかけられる、いないいないばあでびっくりさせられるのもみな同じ機能を果たしている
どちらも笑いは、相手を安心させる機能として用いられている
私たちは遊んでいるあいだずっと笑い続けてはいない
何か不愉快だと受け止められそうなことがあるときだけ笑う
笑いがなければ本気あるいは危険すぎると誤解されかねないような状況にあるときだけ「遊び」を強調する必要がある
子どもたちは厳密に必要である異常に笑うように進化してきたのかもしれない。もしかすると、親の目が届かないところにいても大丈夫だと知らせようとしているのかもしれない。けれども年齢が上がるにつれて、人はコミュニケーションを節約することを学び、たとえば挑発された場合のように直接関係のあるときにしか遊びのシグナルを出さなくなる
そう考えれば、笑いをとるにあたって危ない要素が重要である理由がわかりやすい
むろん、危険が絶対に必要だというわけではなく、害のない言葉遊びで笑うときもある
だが、危険が役に立つことは間違いない
危険が十分になければ、ユーモアの試みは失敗に終わる
遊びのシグナル説によって、わたしたちが笑わないときの多くの例も説明できる
ピエロがよろめいて階段から落ちたら、それは冗談だとわかっているので、くすくす笑う
自分の年老いたおばあさんがつまずいて転んだら、まったく大丈夫ではない
おばあさんのもとへ駆け寄り、大丈夫であることを確認してようやく、その状況を笑ってもよいかもしれないと思う
おばあさんが先に笑えばなおさら笑いやすい
これらすべてを踏まえて、ようやく笑いとユーモアの関係について考えることができる
どのような喜劇的状況であっても、ユーモアが先にあってそれが笑いを発生させている
しかし一歩下がってもっと広い視点から眺めると、その順序が逆になっている
つまり、ユーモアは特定の様式という条件下で笑いを誘う手段であり、芸術の一種だと考えられる
ユーモアの達人は一般に言葉とイメージという抽象的な媒体を用いる
物理的な手段や笑いを伝染させることは禁じ手
そう考えると、ユーモアは金庫を開けるようなものである
正しい順序で、きわめて正確に行わなければならない段階的な手順がある
まず二人以上の人間を揃える(たとえ参加者のひとりがコミックの作者で、そこにいなくても)
それから気分のダイヤルを「遊び」に合わせる
その後、慎重につつきまわしてダイヤルが「本気」の方向へ向かうと思わせながらすばやく「遊び」に戻るようにする
それでようやく金庫が開き、なかにしまわれていた大事な笑いが放たれるのだ(「金庫」の比喩はオルガスムスにもあてはまるが、むろんその場合は開けるためのダイヤルの組み合わせが異なる)
文化が異なればユーモアで金庫を開けるための行動の制約も変わる
あるいは、ある文化のユーモアが部外者の金庫を開けてしまわないように「遊び」と「本気」が独自の方法で定義される、つまり異なる「ダイヤルの組み合わせ」が設定されることもあるだろう
それでも人々の脳内にある中心的な鍵のメカニズムは同じである
笑いの闇の部分
人々は笑いの意味と目的についてまったく無知である
それは単純に笑いが不随意なもの、つまり意識のコントロールの外側にあるからではない
たとえば、身をすくませるのも不随意だが、なぜそうなるかは自分でよくわかっている
笑いに関する無知にはそれ以外の説明が必要
そうした無知は戦略的であるかもしれない
「遊びだよ」の笑いの意味は、見たところ純粋でまったくやましいところがない
もしかすると、わたしたちが落ち着かない気持ちになる原因は笑いそのものではなく、その用い方にあるのかもしれない
そう考えると、笑いはお金のようなものだ
お金が取引の媒体であることを「認める」ことには何の問題もないが、世界中に自分のクレジットカードの明細を明らかにするのはおそらく恥ずかしい
また価値の蓄えであり、勘定の単位でもある。それら3つの性質を併せ持ってようやく「お金」として認められる
ニューヨーク・タイムズ紙が、小売業のターゲット社は直近に購入されたものを分析するだけで女性が妊娠しているかどうかを予測できると報じた時は、プライバシー擁護派のあいだで大騒ぎになったが、その理由は明らか(Duhigg, 2012) 同じように、わたしたちの脳が笑いを引き出したときの状況を一つ残らず記録に残していたなら、わたしたちはその記録が開示されて世間に調べられることに対して神経質になるだろう
プロヴァインが指摘しているように「笑いは概して計画されたものではなく、検閲を受けてもいないため、社会的な関係を探る強力な道具である」(Provine, 2000) だが、わたしたちはたいてい探られたくない
プライバシーを望み、もっともらしく否定したいと考える
そして、笑いに対する本能的な無知は、絶対の隠れ蓑になる
規範
幼い子どもでは、遊びのほとんどが物理的な世界と関係している
そして笑いもまた、同じように物理的あるいは生理的
乳幼児に共通する笑いの引き金
偽の攻撃(くすぐる、追いかける)
偽の危険(保護者によって空中に投げられる)
念入りに仕組まれた驚き(いないいないばあ)など
しかしながら、年齢が上がるにつれて、次第に社会的な世界とそれに付随する危険に注意が向けられるようになる
その多くは規範を巡るもの
規範に違反することは深刻な問題
けれども危険があるところには、探検する楽しみもある
ローラーコースターの物理的な危険がわたしたちを生理的にくすぐるように、規範に絡む危険をもてあそぶことはわたしたちを社会的にくすぐるのだ
「穏やかな違反の仮説は、ユーモアを引き出すためにそろっていなければならない必要十分条件が3つあることを示唆している。状況が違反だと認められていなければならず、状況に深刻な危険がないことが認められていなければならず、そしてそのふたつの認識が同時に発生しなければならない」(McGraw & Warren, 2010) トイレのユーモアをおもしろがる5歳の女児を想像してみよう
その女の子は、ほかの人の前で特定の体の機能を実践したり話たりすることはマナー違反であり、それをすると罰を受けるリスクがあると知っている
しかし同時に、すべてのルールを額面通りに受け取らなくてもよいことも知っている
そこで境界線を探る必要がある
しかしながら成長のいつの時点かで、その子は体に関する規範を学び尽くして、それらに遊びの要素を見いだせなくなる
やがて彼女はそれを卒業して、主に社会的、性的、道徳的規範を気にする大人の世界に入る
あまりにもたくさんのニュアンスを持つあまりにもたくさんの規範があり、すべての境界線やぎりぎりの状態を調べ尽くすことなど決してできない
だが、それらが魅力的な理由は、状況や態度の変化とともに絶えず変わり続けているからでもある
わたしたちのユーモアも規範の変化に合わせて進化しなければならない
広い意味で、規範の危険性を喜劇的な効果として用いる方法は少なくともふたつある
1つ目は、規範の限界を超えたように見せかけて、実際には規範を破ることなく安全な場所に戻ってくる方法
例として人種差別に対する規範を利用したユーモア
「飛行機を卒業している黒人をなんと呼ぶ?」「えっと…わからないな…」「パイロットだよ。何だと思ったの?あなたって人種差別主義者?」
侮辱的なジョークを言い出すのではないかと不安になったが、落ちは安心で安全なもので、そして大笑いがそれに続く
2つ目は、限界を超えて規範を破ってから、初めて雪に向かってジャンプした子どものように」「ここは大丈夫だ」と悟る方法
危機感を煽るために人種差別に対する規範を用い、実際には規範を破らないことで、安全性(と笑い)を与えることに成功している
ジョークが最終的に規範を強化している
けれども、ジョークによっては規範の違反から引き返してこないために、他の方法で安全であることを示さなければならず、そうすることでしばしばもてあそんでいた規範を壊してしまうこともある
たとえば2012年9月にフランスの風刺雑誌シャルリー・エブドが、いくつかのヌード風刺画を含む預言者ムハンマドの不敬な漫画を掲載した
宗教に関係のないリベラル主義者の多くはその風刺画をユーモアとみなした一方で、イスラム原理主義の一部はまったくそうは思わなかった
つまり、道徳的な意味を帯びた状況では、わたしたちの脳が何を笑う対象に選んでいるかによって、本当の感情がはっきりと表に出てしまう
脳が「ここで『正しくない』と思われていることが取り上げられているのはわかっているけれども、真剣には受け止めていない」と言っている
ムハンマドの風刺画を笑う場合、問題となっている規範にはほんの少ししか重きを置いていないと脳が告げているのである
ゆえに、笑いの本当の危険は、すべての人が同じ規範を同じ程度で共有しているわけではないという点にある
ある人にとっての聖域が別の人にとっては笑いの対象にすぎないこともある
したがって、規範の違反を笑うとき、それは他者が大事にしたいと考えている規範を弱める役割を果たすことが多い
そのことから、最高の礼儀作法を維持する責任を負っている人が、なぜ笑いとユーモアを押さえつけることに関心があるかがよくわかる
心理的な距離
それ以外に脳が笑いを通して「漏らしている」機密情報は、笑い話の対象になっている人、つまり笑いのタネにされている人に対する感情である
その人に対する情が薄いほど、その人に何かよくないことが起きたときに容易に笑える
実際にここでは二つの変数が重要
1つ目は単純に、関わっている苦痛の大きさ
骨折よりは針が刺さったほうが笑えるし、無残な死よりは骨折のほうが笑える
心理的に自分から遠いほど感情移入が薄く、その人の苦痛を笑えることが多い
この基準にしたがえば、友人はただの知人より心理的な距離が知覚、知人は敵より近い
けれども心理的な距離の感覚は他の要因に大きく左右される
たとえば、作り上げられた架空の空間で怒るできごとは、現実の生活で発生するものごとより心理的に遠く感じられる
このふたつの変数が合わさって、わたしたちが他人の不幸を知った時にどれほど共感して痛みを感じるかが決まる
ありとあらゆる興味深い境界例がある
そのような境界例で笑うかどうか、あるいはどれほど笑うかで、その苦痛を味わっている人と自分との関係がよくわかる
友達がたくさんいる女子中学生の三人組が廊下のロッカーのところに経っている
つまはじきにされている同級生のマギーが通りかかって、つまずき、本やノートが産卵し、三人組がそれを指差して笑う
三人組の笑いからは、彼女たちがマギーの苦痛を深刻に受け止めていないことがわかる
遊びの対象、つまりたんなるおもちゃとして扱っている
これが先に述べた種類の笑いと異なる笑いの形ではなく、同じことを意味していることに注目
「眼の前で事件が起きたけれども、わたしは安全だ」
この笑いを失礼でいじわるにしているものは前後関係
この女子三人組の行為について道徳的に考察することには注意が必要
他の人間の不幸を笑っっていると三人を非難することは簡単
本当の問題はそれではない
わたしたちはみなそのようにして他者を笑っている
「自分の遺伝子を抹消することで人間の遺伝子プールを進歩させた者を追悼する」ウェブサイト、「ダーウィン賞」を例として考えてみよう たいてい不運か愚行、もしくはその両方によって引き起こされたぞっとするような死のリストで、もっぱら笑うために並べられている
記述されている不測の事態はマギーよりもはるかに深刻なものばかりだが、犠牲者は見ず知らずの他人であり、彼らの苦痛が自分にとって深刻に感じられないので、わたしたちはそれをおもしろいと思う
よかれあしかれ、私たち人間はそのように作られている
もっとひどい例をあげるなら、人々がいかに頻繁に刑務所のレイプを冗談交じりに笑い飛ばしているかを考えてみればよい
「石鹸を落とすなよ」(シャワーで他人に尻を見せるな)がそのよい例
レイプは一様に非難されてしかるべきだが、それでいて犠牲者が犯罪者だと、わたしたちの脳は犠牲者が無実の一般市民のような「危険」信号を出さない
堀の中の人々は社会的にも心理的にも遠い
女子中学生三人組がマギーを笑うときはつまり、彼女たちの脳が、わたしたちが刑務所のレイプや「ダーウィン賞」を笑うのと同じアルゴリズムで動いているのである
どうしても三人組の行動を道徳的に考察したいなら、彼女たちの笑いがさらなる苦痛を生むという事実に目を向けるべきだろう
ほとんどの人は、笑いに害がない状況、あるいはときとして笑いが役に立つような状況でしか笑わないように努めている
友人がシャツにワインをこぼしたら、理想としては、その友人が先に笑って「大丈夫」の合図が出てから笑いたい
そうでなければ、危険を覚悟で先に笑って、自分の笑いが手助けになって相手が状況が深刻ではないと正しく受け止められるよう願う
だが、そのような笑いはまさにやんわりとしていなければならない
自分の笑いがさらなる苦痛の原因になってはいけない
からかいも同じような流れに左右される
からかうということは、しばしば笑いながら、冗談で相手を少し傷つけること
興味深い点は、人間関係を強める「悪意のないからかい」と人間関係を弱める「意地悪なからかい」のち外
悪意のないからかいは、十分な温かさと親しみでもって攻撃を相殺する
見知らぬ人をからかうことが難しいのは攻撃を緩和するための親密さがあらかじめ存在していないため
つまり、わたしたちがからかう相手は必然的に親しい人に限られる
それを知っている、察しているために、からかいには距離を縮める力がある
しかしながら、からかいがすぎたり、苦痛を相殺するに足りるやさしさと温かさがないと、意地悪になってしまうこともある
親密さのかけらもないとき、いじめ、虐待になる
この種のいじめはいじめる側にとってはきわめて効果があり、いじめられる側にとっては厄介
なぜなら、このいじめにはあらかじめ口実が備わっているから
「冗談だってば!ジョークもわからないの?」
何度も繰り返すが、わたしたちの脳はこうしたことのほとんどを自動操縦で行っている
私たちの脳波自動的かつ無意識にそれを計算している
プロヴァインが指摘しているように、まさに笑いが不随意であるからこそ、笑いは社会的関係を探る強力な道具になる
このようにわたしたちは社会的な境界を測定し、調整するために笑いを用いる
行動の境界(規範)と集団の一員であることの境界
だがその調整には慎重さが求められる
よって否認する力が必要
否認
大人は公然と性の話をしたがらない一方で、冗談なら喜んで話す、むしろ話したがっている
たとえば、『となりのサインフェルド』の一羽で、登場人物がだれがいちばん長くマスターベーションをしないでいられるかで賭けをする
会話は実際のマスターベーションという言葉を巧みに避けているが、何の話かはすぐわかる
そしてマスターベーションが笑いとして楽しまれているという事実からだけで、その話題について知っていなければならないことの殆どが理解できる
まず、それがタブー、つまり間違っても祖母の前で論じてはいけないものごとだということ
次に、少なくともテレビを見ている多くのアメリカ人の目には、それがありふれたことで、だいたい受容できるものごとだということ
社会全体は大目に見てくれないかもしれないが、自分が逸脱者のレッテルを貼られることはない
規範には違反するが、緩やか
つまり、笑いは言葉ではなかなか言えないような境界を示してくれる
よって、社会の境界線を探るにあたって、ユーモアが重宝することもある
安全と危険、適切なものと逸脱したもの、共感に値するものとしないものの境界
実際、笑いから見えてくるのは、規範やその他の社会的な線引が、白黒をはっきりさせてあるのではなく、前後関係によって様々な濃さの灰色のなかを波のように揺れ動いているという真実
その仕事に言語の出番はない
言葉はあまりに正確で、あまりに引用されやすく、あまりに「オンレコ」
笑いには言語ほどの表現力はないかもしれないが、注意を要する話題に触れるにあたってうってつけの特徴がふたつある
1つ目は、笑いが比較的正直であること
不随意である笑いは少なくともたいしたうそはつかない
2つ目は、笑いは否定できること
否定によって、わたしたちは安全に避難できる場所、簡単な脱出方法を手に入れることができる
不適切に笑ったことを咎められても、軽くあしらうことは容易である
「あら、どういう意味かよくわからなかったのよ」「ほら、元気出せよ。ただの冗談だよ」
しかも、わたしたちは本当は笑いの意味を明確に把握しておらず、なぜおもしろいものがおもしろいのかがわかっていないため、大きな確信を持ってそうした否定を繰り出すことができる
コメディアンのビル・バーは「元気出せよ」の防御方法を幾度となく先制して用いている
コメディアンが発したジョークについて批判を受けることについて、バーは以下のように述べている
「コメディアンが謝罪するたびに僕は不安になる。こっちの言ったことをそっちが真に受けたからといって、僕が本気で言っていることにはならない。僕の頭の中に入って僕の意図を汲み取るなんてことはできないはずだ。僕が冗談だと言ったら、冗談なんだ」(Burr, 2014) 笑いの取り柄はどちらも正しいところでもある
もっともらしく否定して安全な場所に避難することで、バーや他のコメディアンたちはタブーになっている話題について正直に語っても逃れることができる